こころの眼 − アンリ・カルティエ=ブレッソン 

gr21-018

写真論や,写真に関するエッセーを読んだからといって,自分が撮る写真や興味を持つ写真が変わる訳では全然無いんだけど,優れた先達が言葉を残してくれているのであれば,それに触れてみたいと思う訳で,このところバラバラと購入しては読み進んでいる.

ブレッソンの「こころの眼」も.最近買った本の一つで,このところ都心での打ち合わせで電車に乗る機会が多かったので,少しずつ電車の中で読んだ. ただ,残念ながら(残念なのはつまり私のアタマな訳なんだが)どうも判ったような判らなかったような気分で,この本について,ではないが,いくつか気になったことや「ほほぉ」と思った事があったので,それを乱雑に記してみたい. つまりまるっきり読書感想文では無い点をお許し下さい.

きっと,本書はあと二回くらい読みそうな気がしているけど.

「決定的瞬間」として頻繁に引き合いに出されるブレッソンの代表作「サン・ラザール駅裏,パリ」という写真があって.この本にもずばり「決定的瞬間」と題された節に挿入されている. さらにブレッソンはこの節の後で写真の構図と,さらにトリミングに関して述べていて「良い写真をトリミングする事はフレームの比率を壊す事だ」と書いている.

書いているんだけど,実はこの「サン・ラザール駅裏,パリ」はトリミングされているのではないか?と言われていて,「ブレッソン,なんだよ〜」って思われているらしい.(ちゃんと裏取ってないので,推測です,すみません) で,なんでこんな事を書いてるかと言うと,ある集まりでこの写真の話になった時にある方が「でも,これトリミングされてるらしいですね」と. いや,それだけなんだけど,私はその時,「「でも」ってなんだよ,「でも」って?」ってコッソリ思っていて,そのことを思い出した次第.

その方も特に意図して「でも」って言った訳では恐らくないし,上述の様な事を書いている以上「ブレッソン,なんだよ〜」って雰囲気も判る気がする. だけど,多分自分は「でも」って言えないなぁ,と.

森山大道氏や中平卓馬氏の同人誌として有名なPROVOKEには「写真は<思想のための挑発的資料>である」と書かれていたと,森山氏のエッセー「犬の記憶」に書かれている. この言葉自体を深く考えた事は無かったんだけれど,ブレッソンの「こころの眼」の中に次のような一節があった

カメラはものごとの「なぜ」に答えるのに適した道具ではない.むしろその問いかけを喚起させるものだ.

この一文が妙に引っかかって,そしてPROVOKEのマニフェストを思い出した. もしかして,同じ事を言っているのだろうか? いや,違うのか・・・.

と,考えるのは楽しいのだが,だけど自分が写真を撮る時に,上のようなことはまるっきり考えちゃいないって事も事実なのであった. 写真論ってのはいったいなんなのだろうなぁ,と思いながら,またパラパラと別の本を読んでみようと思う.

まったく本文に関係の無い上の写真は,実は私の小学校時代の通学路を写したものなのです.

40年前に小学生一年生だった私は,まだ細くて背も低かったはずのこの桜の木の脇を抜けて,その先のポプラ並木の下を通って,さらに向こう側にある小学校まで片道30分かけて通っていたのです. その後私が小学校を卒業してからしばらくすると,当時の私の居住エリアの近くに別の小学校が新設されたのと同時に,この通学路は閉鎖されました. 国立の施設の敷地内を,特別に我々小学生の通学のために解放してくれていたのでした. 今は,柵のこちら側から手を伸ばして写真を撮る事しかできません.

つい,ほんの先日まで小学生だったはずの自分との距離感と,この桜の木のあまりの立派さとの間にどうしてもギャップを感じてしまって,いつもこの前にくると少しだけ呆然としてしまうのです.

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